「またたび清水」と「強清水」 (昔話)

先日のバス停の地名”強清水”に関する昔話を見つけました。
17.gif川中島(かわなかじま)出陣のため武田信玄(たけだしんげん)は隣の国、甲州から大軍を率いて大門(だいもん)峠を越え、大門の小茂ヶ谷(こもがや)の手前広原(ひろっぱら)のあたりにさしかかりました。信玄はここで本隊をとめしばらく休むことにしました。広原の道ばたにはこんこんと湧き出る冷たいきれいな清水がありました。
 信玄は部下が汲んで差し出した清水をぐっと飲みほし「よい清水だ。」と喜び、しばらく休むと、号令をくだし、先をいそぎ大門の中心宮ノ上(みやのうえ)のあたりにさしかかりました。
 その頃の宮ノ上部落は隣の窪城(くぼき)部落とひとつの部落になっていて、部落の高地には明神様がまつられていました。信玄は明神様にお参りするため再び部隊を止めました。
 村人たちもてい重に信玄を出迎え、みんながだいじにしていた清水をお椀に汲んで信玄にさし出しました。いっきに飲みほして、「これは良い水だ。」とたいへんほめました。
 「風林火山」の旗を押し立てて怒涛のような勢いで中部関東にまで手をのばし天下制覇を夢みて京都に向かって進みました。
 ところが無念にも三河の野田城をおとしいれたころから、信玄は病気になってしまいました。一度甲州に帰って病気をなおしもう一度出なおそうと考え大軍をすごすごと引きかえさせました。
 下伊那(しもいな)の駒場(こまんば)[阿智村](あちむら)まできたころ信玄の病気はますます重くなり、重臣を集め「あしたは風林火山の旗を全部たてろ。」と命令し、信玄はすっかり京都に乗りこんだつもりになり夢うつつのうちに、「・・・川中島出陣のとき飲んだ大門の宮ノ上の清水がほしい。水、水。」といいました。
 重臣が相談してけらいの一人を早馬で水を汲みに走らせました。水を汲みに来た信玄のけらいは馬のうえで考えました。「宮ノ上の水を汲んで帰るまで総大将(信玄のこと)が生きているかどうかわからない。同じ大門の強清水を汲んで帰ろう。」
 信玄の本陣からは強清水の方がずっと近かったからです。「殿大門宮ノ上の水です。」差し出された清水をひと口飲み終わった信玄は、「これは宮ノ上の水ではない。」と、いいました。病気で夢うつつのうちにも天下の名将は清水を飲みわけました。
 ときに信玄53歳天正元年(1573年)4月12日死によって天下制覇の夢はむなしく消え去りました。
 信玄のほしがった宮ノ上の水を汲んでこなかったことで汲みにやったけらいに、罰をすることでいろいろな議論がかわされました。
 水を汲みにきたけらいは、いいました。「ぜひとも殿様の最後の喜びにむくいるために強清水を汲んできました。この清水も殿が川中島出陣のときたいへん喜ばれた清水です。」と、・・・・・
 いろいろな意見がありましたが、水を汲みにきたけらいにおとがめはなにもありませんでした。
 信玄がまた飲みたいと、いってから、この宮ノ上の清水を「またたび清水」とみんなが呼ぶようになり、広原の「強清水」とともに、とても有名な清水になりました。
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”宮の上にあるまたたび清水” と ”小茂ヶ谷の強清水”
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風林火山ののぼりだけが目印。
(以上、地元観光協会サイトより引用させていただきました。)

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